昨日の続きです。
ちょっとあっちこっちの時代を前後しちゃったので、解りづらかったかも知れないです。イタリアの修復の歴史について考えていたんでした。
* 修復という概念は比較的最近のもので、それは、もともと”保存”という意志に端を発している、ということ。
* “保存”の概念も歴史の中で発展して行った、ということ。新しいもの作るおカネ無いから、的な“実用と必然による保存”から、ルネッサンス期の人文思想が生んだ“歴史を継承する目的による保存”へ。
そう、さらにこのルネッサンス期に、例の "Patina" というラテン語と概念が復活します。主に古代美術品上に見られる風化や変色が、コレクターの間で珍重されたのが始まりです
…というわけで、ああ、ルネッサンス!イタリアもここまではよかった…
しかし、ここまでだった…
宗教改革、そして反宗教改革でキリスト教の逆襲を受けたイタリアの春はあっけなく幕を閉じ、また、政治だか宗教だか判んない権力の抑圧の下に戻ってゆくのでありました。
こうなると、人文も古代の夢もPatina も隅に追いやられて、過去の遺産も “書き換えられるべきもの”として扱われる立場に戻ってしまったわけです。教会の権力を誇示する為の、ごてごてした装飾で覆い隠されてゆく建築や、加筆を繰り返される絵画は、せっかく生まれた新しい保存の概念の成長に歯止めがかかってしまった事を意味していました。
人生(歴史)における厳しい猛暑の夏を果敢に乗り越えて収穫の秋を迎える事のできなかった“キリギリス”、イタリアに代わって、次の経済的、文化的主導権を握るのが、フランス、ドイツ、イギリスです。18世紀後半、これらの国へ、経済的に崩壊し始めたイタリアの貴族階級の美術品コレクションが大量に流出し始めます。特にヴェネツィアにおける文化的遺産の喪失が顕著で、これを重く見た文化人の間で、これらの芸術作品を保護する為の機関が発足します。さらに Accademia di belle arti (美術大学)には保存修復科が設けられ、そこで初めて、文化財修復という概念がきちんとした方法理論として論じられ、実行されるようになります。革命後、19世紀に入るや否や、この動きはヨーロッパ各国へ展開し、おびただしい数のモニュメント、芸術作品が“修復”され始めます。この背景には、ロマン主義思想が強く働いています。戦争や、革命で傷ついた祖国を復興しようとした時、自らのルーツである歴史や伝統に対する愛(ロマン主義思想の一つの感性です)は、“復旧”という方向性を “復興”に与えたわけです。同時に、フランスで流行った中世賛美や、懐古趣味は、"Patina" の概念をセンチメンタルなレヴェルで確立します。
…と、まあ、ここまでは、まだ、美術品やモニュメントが修復のターゲットとして扱われていたので、いわゆる家具など個人レヴェルの物品に関しては、現在のような興味の対象ではありませんでした。 でも、基本的な保存修復の意志はこうして確立されて行ったわけです。
えへぇ〜、退屈ですか? 実際、今回は写真がないのだ…
だから、これでおしまいにします。
続きはまた、次回。
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